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第27話 海底


 ローリーの顔に、やわらかい木漏れ日がこぼれ落ちていた。
 短く刈り込まれた金茶色の髪は金色の光にきらめき、たっぷりとした睫毛はふさふさした羽根のように愛らしい。いつも真冬の海のように冴えた瞳は、この日の青空のように澄んで優しいブルーグレイ。硬い石膏像のようになめらかな彼の頬がかすかに上気して見えたのは、きっと暖かな午後の陽射しのせいに違いない。
 そうよね?

「驚いているな」
 落ち着き払った声で、ローリーは私を評した。
「そりゃあ…… そりゃあ驚くわよ!」
 私はみっともなく声を上げた。
 仲直りしたばかりの幼馴染みから、突然プロポーズされたのよ。これで驚かずにいられるほど、私は肝が据わった女ではない。
「ローリー、突然そんなことを言い出すなんてどうしたの?」
 私は困惑もあらわに彼に問いかけた。「あなたのことだから、冗談や戯れでないことくらい分かるわ。だからこそ、あなたがそんなことを言うなんて信じられない。ねぇ、どうしていきなりそんなことを言うの?」
「立ったままするべき話ではないな。あそこに座って話をしよう」
 馥郁とした甘い香りを放つハニーサックルがこんもり茂った四柱の屋根の下に置かれたベンチを指すと、ローリーはそこに座るよう私を促した。秘密の花園のあずまやのように、人々の聞き耳を気にせず話ができそうだった。

「白鳥の騎士と低地の公女の約束を覚えているかい?」
 白い木製のベンチに腰を下ろすと、彼はためらうそぶりも見せず淡々と話し始めた。「えぇ、覚えているわ。あなたはとても嫌がっていたわね」
 いたいけなローリーを思い出すと、たまらず口元がほころんだ。
「あぁ、冗談ではないと思ったよ。僕が白鳥の騎士、君が低地の公女になったら、僕は最後には遠くへ行かねばならず、君は死んでしまうのだからね」
 白鳥の騎士は低地の公女と愛し合い、彼女を守り、魔女の悪の手から低地の公爵領を救う。でも彼の正体は聖杯を守護する王の息子。彼らは決して結ばれず、白鳥の騎士は去り、低地の公女は悲しみに打ちひしがれ死んでしまう。
 『白鳥の騎士と低地の公女』は大昔の対岸の大陸が舞台の気高くも悲しい物語だ。幼い私たちは、世の中の物知りぶった人々にならって、悲劇だからこそ二人の愛は美しく、永遠に冒されることのない崇高なものだと思っていた。
 でも、心から誰かを愛することを知った今、私は悲劇が怖くてたまらない。愛する人が自分から離れ去っていくなど耐えられない。それこそ、低地の公女のように死んでしまうだろう。肉体ではなく、心が凍えて息絶えてしまうだろう。
「しかし、君はずっと一緒だと言ってくれた」
 ローリーは私の顔を真っ直ぐ見つめた。「あの頃からずっと、僕はいずれ君と結婚するのだと信じていた。いや、勝手にそう決め付けていた。君はずっと僕と一緒にいると約束したのだからと…… だから、君がヴァンダーグラフ家の息子と婚約を発表したとき、僕は君に手酷く裏切られたように感じた。僕はここから離れた大学の寮にいて、勉強も手に付かなくなるほど落ち込んで、それから君に激しい怒りを覚えた」
 幼い頃の肖像画を眺めるように、ローリーの眼差しはとても穏やかで優しかった。
 私は注意深く彼の言葉に耳を傾け、一瞬の変化も見逃すまいと彼の表情を観察していた。ちゃんと彼の話を聞いていると伝えたくて、私は彼にゆっくりうなずいて見せた。
「我ながらおかしな話だ。君と僕は恋人でも将来を誓い合った仲でもなかったのに、子供時代の約束をあてにして、僕は君がすでに僕のもので、僕以外の男と結婚することなど考えてもいなかった。だから、あの頃の僕は君に弄ばれ捨てられたような心地になっていた。なぜなら……」
 いったん言葉を切ると、恥じ入るように左の頬にえくぼを浮かべ、ローリーは苦いものを味わうように微笑んだ。しかし、すぐに唇をきつく引き結ぶと、私を見つめ返す青みがかった灰色の瞳に強い意志が灯った。
「リディ、僕はずっと君のことが好きだったんだ」

 気が遠くなるほど長い間、そよ風に揺れる若葉の音が響くだけの沈黙が漂った。
 ベンチを囲む小さな屋根の上から小鳥のさえずりが響き、我に返った私は落ち着きなく視線をさまよわせた。溺れる人魚に呆れる水兵のように、いくらか困ったような苦笑いを浮かべてローリーは私を見ていた。
「君はさっきから驚いてばかりだな」
「驚かずにはいられないわ! あなた、あなたは今、私に……」
 それ以上はっきり口にできず、私は熱気球のように熱くなった顔を下に向けて口をつぐんだ。
「僕は今、君に愛の告白をしたんだ」
 あぁ、そうだったわ。ローリーは昔から臆することを知らない子供だった。いついかなるときも堂々と自分の意見を主張できる自我の強さはうらやましいけど、それが自分に向けられるのは決してありがたいものではないのよね。
「君が離婚したとき、僕は喜んでいた。君が独身に戻ったからではない。僕を裏切った女が不幸になった、罰が当たったのだと卑しい喜びを感じていた。白鳥の騎士が聞いてあきれる。あの頃の僕は救いようもなく自己中心的で独善的で……あぁ、今となっては思い出すだけで殴り倒したくなるほどあの頃の自分を恥じている。リディ、何度謝罪してもあがないきれないほど僕は君を傷つけてしまった」
 膝と膝が触れ合いそううな距離で、ローリーと私は見つめ合っていた。「そんな僕からのプロポーズなど到底信じられないだろうが、僕は真剣に君と結婚したいと思っている。夫として、君を幸せにしたいんだ」
 金茶色の睫毛に縁取られたブルーグレイの瞳は見たこともないほど熱っぽく、完熟のリンゴのように真っ赤な顔をした私を映しだしていた。ローリーの瞳は一点の曇りもなく澄んで美しかった。
「本来なら君ではなく、君の父上に君との結婚を申し出るべきなのは承知している。しかし、君はつねづね “私は二度と結婚しない” と言っている。その理由に皆目見当が付かないほど、僕は愚鈍な男ではない。だからこそ君の父上ではなく、まず君の気持ちを確かめたかった。君自身が――二度と結婚を望まない君が――僕と結婚してもいいと思えるかどうか知りたかった」

 頭の中は嵐の海のように何もかもごちゃ混ぜで、心臓は火災を知らせる早鐘のように激しく鼓動を打っていた。今にも発火しそうなほど熱く赤らんだ頬は、とてもじゃないけど暖かな春の陽射しを言い訳にできそうになかった。
 気心の知れた幼馴染みの男友達が、今、私を無心に見つめながら愛を打ち明けてくれた。そのうえ彼は、再婚を望まないと公言していた私に、勇気を持ってプロポーズまでしてくれた。私を思いやり、両親ではなく、まず私に結婚の申し込みをしてくれた。

 ありがたいことだ。
 私のような出戻り女、しかも二十四歳になる嫁ぎ遅れで、おまけに商売に手を出したじゃじゃ馬に心を寄せてくれたんだもの。
 ローリーと結婚すれば、私たちはきっと毎日丁々発止のやりとりを交わして使用人たちを心配させるような、気心の知れた幼馴染みそのままに仲の良い夫婦になれるだろう。ホフマン家の跡取り息子から結婚を申し込まれれば、父と兄は諸手を挙げて賛成するだろう。親しい友人の息子なら、母は安心して歓迎するだろう。心優しい祖母は、不出来な孫娘の再婚を心から喜んでくれるだろう。これでようやく、私の行く末を案じていているばあやを安心させてあげられる。このプロポーズを受け入れれば、私だけじゃなく、ローズデール家のみんなが幸せになれるだろう。
 私はゆっくり深呼吸をすると、慎重に言葉を選びながら彼に返事をした。
「ローリー、あなたの振る舞いは私を傷つけたわ。でも、あなたはちゃんと謝ってくれた。あなたはとても誠実で信頼すべき殿方よ。あのとき、私はすごく嬉しかったわ。またあなたと仲の良い幼馴染みに戻れる、またあなたとたくさん楽しいおしゃべりができるって。だから、もうあなたが自分を恥じる必要はないのよ」
 彼がうなずくのを確認すると、私は続けた。
「あなたが私を妻に望んでくれるなんて、ただただ驚いているわ。それだけじゃない。とてもありがたいと感じているの。持参金目当て以外で私を妻に望んでくれる殿方なんて、もうこの先一生出会えないと思っていたから」
「たとえローズデール家が君のために持参金を用意できなかったとしても、僕が妻に望むのは君だ、リディ」
 熱っぽい眼差しはそのままに、ローリーは法務官のような厳然たる口調で断言した。
 感謝と羞恥心で息苦しくなり、私はうつむいた。すると、ほっそりした、けれど節々が大きな男の手が優しく私の手を包み込んだ。大慌てで顔を上げると、今にも唇と唇が触れ合いそうな距離でローリーと見つめ合うことになってしまった。海のように深い紺碧を淡くしたようなブルーグレイの瞳が、ひたむきに私を見ていた。
「リディ、お願いだ。僕のプロポーズを受け入れてくれ」
 生真面目で昔堅気で、それでいて真摯で優しい青年が一心に私を求めてくれている。
 うなずくべきだ。私はここでうなずくべきよね。そうしたら、私も、家族も、大切な幼馴染みもみんなが幸せになれるんだもの。

 それなら返事は決まっている。このプロポーズを受けるべきだ。
 分かっている。私は分かっているわ。

「ローリー、ごめんなさい。私はあなたの妻にはなれない」
 分厚い雲が陽射しを遮るように、彼の端整な目元に影が落ちた。
 理性ではなく、私は自分の心に従った。息もうまくできないほど、私はローリーからの求婚に感激していた。彼への感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。
 けれど、私の中に歓喜はなかった。
 私の心の海面は波立っていた。でも、少し大きく息を吸い込んで深く潜り、しっかり目を開けて見れば分かる。私の心の海底は渦も濁りもなく、静かな潮が流れている。普段と変わりなく、平穏で落ち着いている。
 二代前の王国首相と海軍の英雄を曽祖父に持ち、自由貿易同盟でも有数の名家ホフマン家の跡取り息子からプロポーズを受けてさえ心を動かされない、海底の石のように冷たく強情な女。身の程をわきまえない愚かな出戻り女。社交界の “正しき人々” はきっと私をそう非難するだろう。でも、身の程知らず、親不孝者と誹りを受けようと、子供時代を共に過ごした大切な幼馴染みに対して、友情と真心をもって誠実に正直にありたかった。

 ローリーと結婚すれば、私は楽しく幸福な日々を手に入れられるだろう。妻として、女主人として、母親として、彼は私に我慢や忍耐、苦悩や苦痛を強いることはないだろう。私たちは家では互いを名前で呼び合い、末永く仲良く暮らせるだろう。ときには深刻な問題も起きるだろう。そのときは議論し合い、交渉で折り合いをつけて解決し、より絆と信頼が深まるだろう。私は “ローランド・ホフマン夫人” として社交界での評判を取り戻し、私を出戻り女とバカにし、独身の女商人と煙たがる人たちを見返すこともできるだろう。
 でもそれは、本当に望むものの二番煎じに過ぎない。
 彼をジョセフの代わりにし、叶わなかった恋心を代用品の愛で慰めながら過ごす対価でしかない。
 いくら我がままで自分本位な私とて、そんな姑息で卑怯な選択に甘んじることはできない。たとえそれが家族の期待を裏切り、私を妻に求めてくれた幼馴染みを傷つけ、女としてさらに評判を落とすことになるとしても。

 後ろめたさが顔に出ないよう、私は唇をきつく引き結んでローリーを見返した。
 北の海を覆う氷河のような、彼の青みがかった灰色の瞳。
 『南十字航路物語』の旅の仲間、頭脳明晰な航海士セオが寸分違わぬ海図を描くように、私の心の有様をあますところなく見抜こうとするかのようだ。

 ローリーの反応を待つ間、私は幼馴染みを拒絶する罪悪感におののいていた。
 せっかく取り戻した友情を失うかもしれない不安と恐怖を封じ込めるように、私は拳をきつく握り締めた。



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