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【番外編】第4話 末息子


 わたくしの末息子が、我が家に顔を出すことは滅多にありません。
「私のような不肖の息子が、美しい五番街の調和を乱すのが心苦しいのです」
 そんなふうに言って、不幸な事故で妻を亡くし、独り身に戻ってからますます実家に寄り付かなくなりました。

 森のように広大な中央公園に臨むブラッドリー家の本邸は、閑静で落ち着いた五番街の五十七丁目にあります。対して、わたくしの末息子が暮らしているのは、ここより少し東側を走る、この街を南北に抜ける通りの最南端にある地区です。
 そこは若い商人たちが数多く住む活気あふれる地区と聞き、一度だけこっそり様子を見に行ったことがあります。街行く紳士たちはみな肩で風を切るように堂々と速足で闊歩し、御者席が後方の高い位置にある小ぶりな二輪馬車(ハンサム・キャブ)が様々な人を乗せたり降ろしたりしながらせわしなく駆け抜けて行くのです。人々も時間も五番街の倍の速度で進む様子にひどく驚いて、わたくしは目が回りそうになりました。

 家業と掛け離れた場所でみずから身を立てる末息子は、頼もしく誇らしい限りです。
 でも、上の二人の息子ルドルフとラルフはそれぞれマーガレット、ルイーズという妻をめとり、家庭を営みながら妻子と一緒によく我が家に顔を出してくれるのに……と、どうしても寂しさを覚えずにいられません。

 ところが先日、その末息子から言付けが届きました。
 ひどく堅苦しくかしこまった調子で、夫とわたくしに直接会って話さなければならないことがある、というのです。
「もしやミス・フェアバンクスと結婚する気になったのか!?」
 期待と安堵に胸をふくらませる夫に同意の微笑みを返しつつ、わたくしは内心、首を大きく横に振っていました。
 夫がミス・フェアバンクスとの――いくら親子とはいえ軽率かつ非礼が過ぎた――結婚を持ちかけたとき、温厚な末息子が初めてわたくしたちに見せた強烈な不快感と激しい怒りを思い返すと、それだけはないだろうと確信できたからです。

 数日後、数ヵ月ぶりに末息子が我が家に帰ってきました。
 客間でわたくしたちを待っていた末息子は、巨匠の名画を背に――親ばかは承知しております――いつもと変わらぬ男振りでした。しかし、これまで見たこともないほど不安と闘っている様子でした。彼とテーブルを挟んで向き合うように長椅子に腰を下ろすと、もったいぶることを嫌う夫が単刀直入に切り出しました。
「私たちに話があるそうだな?」
「父上、母上、お時間を割いていただいたこと感謝します」
 末息子の返事は、まるで初対面の取引相手のような恭しさです。わたくしは夫と顔を見合わせました。
「ずいぶんとまたかしこまった物言いね、ジョセフ。言付けもそうだったわ。ここはあなたの家でもあるのですから、いつでもあなたの好きなときに訪ねてくれればいいのに。いったい何があったの? 今日のあなたは少し様子が変ですよ」
「ブランデーがほしいな。父上と母上も何か飲まれますか?」
 夫が首を横に振りました。
「わたくしたちは結構よ」
 こわばったジョセフの顔を見つめながらわたくしは言いました。「でも、あなたの表情を見ているだけで不安になるわ」
「私の身になれば分かっていただけますとも」
 ジョセフはひどく深刻な様子でつぶやきました。
 ブランデーを注ぎ、勢いよくひと口流し込んでからグラスを置くと、彼の顔は重大な決意を下した男のものになりました。
「おふたりに大事な話があります」
「それは気になるな。何だ?」
 夫が先を促しました。ジョセフは小さく息を吸い込み、表情を引き締めました。

「結婚することにしました」

 夫しかり息子たちしかり、ブラッドリー家の男たちの物言いは呆れかえるほど率直で簡潔です。夫は目を見開き、短い沈黙の後、しかつめらしくつくろっていた表情をぱっと輝かせました。
「おぉ! そうかそうか! ジョセフ、ようやくミス・フェアバンクスと――」
「父上、相手はもちろんミス・シャーロット・フェアバンクスではありません」
 ジョセフは喜び勇んだ夫を遮りました。「私には以前から付き合っている人がいるのです」

 寝耳に水の告白です。わたくしはひどく驚きました。
 夫をうかがうと、驚きと不満をあらわにしつつも、息子の意見を聞く冷静さと平常心は残していたようです。
「そうだったのか。知らなかった。お前が誰かと付き合っていたとは初耳だ」
 夫は私に問いかけました。「お前は知っていたのか?」
「いいえ」
 私の返事にうなずくと、夫は探るようにジョセフを見据えました。
「私たちが気付かなくてもよそから耳に入っただろうにな。社交界はお前の一挙一動に目を光らせているから」
「噂になるわけにはいかなかったんです。相手の女性は、私との関係を知られるのを望んでいなかったので」
 夫がにわかに表情をこわばらせ、声が険しくなりました。
「私が知る限り、ジョセフ・ブラッドリー夫人というのは、いま社交界の淑女たちが最も手に入れたがっている身分のはずだが?」
 夫の家長らしい擁護に、わたくしもジョセフも思わず苦笑いしてしまいました。
「知り合ったときは、こんなことになると夢にも思っていなかったからです。言い直しましょう。私はこれまでずっと再婚を避けてきましたが、それは彼女も同じでした。彼女と私は互いに結婚を望まず、それゆえ歩み寄り、愛し合うようになったのです。ところが、それまで逃げ回っていたのが嘘のように、私は彼女との結婚を強く望むようになりました」
 愛する恋人を思い出しているのでしょうか、ジョセフの硬い表情は一瞬でとろけ、うっとりしたような甘い微笑みが浮かびました。
「しかし、彼女は違いました。私との関係が社交界に知られれば、彼女は私と結婚しなければなりません。私はそれでも構わなかったのですが、彼女に無理強いはしたくなかった。だから根気強く説得を続けてきました。最近ようやく彼女が私の懇願に耳を傾けてくれるようになりました。だからこそ、父上と母上に私の意志を認めていただきたいのです。私は彼女と結婚します。彼女でなければ一生誰とも再婚するつもりはありません」
 夫もわたくしも、末息子の熱弁に圧倒されて言葉を失いました。この子がこれほど情熱的にみずからの感情をあらわにしたことなど、多感な少年時代ですら記憶にありません。あっけにとられている私たちに気付いたのか、ジョセフは咳払いをひとつしてから表情を引き締めました。
「とりあえず今日は、もうすぐ正式に彼女に結婚を申し込むつもりだということをお知らせしたかったのです」
「まぁ、素敵ね。母親として素直に嬉しいわ。あなたとの付き合いを秘密にしたいだけでなく、結婚を望まないというのはよく分からないけれど。ここ自由貿易同盟の女なら、あなたから本気の交際を申し込まれたら大喜びするでしょうに」
 母親、ブラッドリー家の女主人として威厳を保ちつつ、わたくしはあふれんばかりの期待と好奇心を胸にジョセフに尋ねました。
「で、お相手はどなた?」

 緊張と不安を隠せない様子で、ジョセフは静かに答えました。
「ミス・リディア・ローズデールです」
「あのエドワード・ローズデールの娘か!?」
 日頃から “厄介な曲者”、“貪欲な猛禽” と警戒している海運貿易商の娘の名前を出され、夫は立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出しました。「出戻りのうえに独身の女商人じゃないか!」
「そうです。ローズデール家当主エドワード・ローズデール氏の令嬢で、私と同じく一度結婚したことがある、淑女にして商人のリディアです。彼女が独身なのは喜ばしいことです。おかげで私は彼女と結婚できるのですから」
 ジョセフは顔中に仮面のような笑みを貼り付けましたが、鋭く尖った声は誤魔化しようがありませんでした。
「ミス・フェアバンクスほど有益な縁組でないことは承知していますよ。ただ、父上や母上が家柄だの政略だのを口に出す前に、あらためて申し上げておきます。以前にもお話ししたとおり、私はそういうことに一切興味を持っていないし、価値を見出してもいません」

 夫と末息子の間に横たわる険呑な空気にやれやれと溜め息をつきそうになるのをこらえ、わたくしはまずジョセフをなだめようと試みました。
「彼女とあなたは以前から友人として親しかったわね。彼女はとても美しいし魅惑的だわ。あなたが惹かれるのも分かるわ」
「それだけではありません!」
 ジョセフは身を乗り出しました。
「彼女は聡明で、教養豊かで、機知に富み、思いやり深く優しい心の持ち主です。みずから商売をしているからこそ私の労苦を察し、いたわり、励まし、癒してくれます。にもかかわらず、彼女は私に与えるばかりで、見返りを求めません。ブラッドリー家の財産にも興味を示さないし、それどころか私の妻という肩書きも眼中にないようだ」
 困り果てた苦笑いを浮かべてから、ジョセフは小さく付け加えました。「結婚を申し込んでも、うんと言ってくれるかどうか……」
「いったいどうして? ミス・ローズデールはあなたの何が不満なの?」
 わたくしは思わず憤然と問いただしました。
「父上も母上もご存じでしょう? 彼女は結婚でひどくつらい思いをしたんです。だから、日頃から “二度と結婚するつもりはない” の一点張りなのです」
 我が身を切りつけられたように、ジョセフは痛々しげに表情を歪めました。
 ミス・ローズデールの離婚劇はわたくしたちも知っています。
 かつてのヴァンダーグラフ家の跡取り息子は、ミス・ローズデールと結婚してからわずか一週間で小間使いの娘と駆け落ちするというとんでもない愚行を犯しました。まったく見苦しく酷い話です。
 ジョセフはもう一口ブランデーを流し込んで話を続けました。
「それでもやはり、私はリディアが必要なのです。父上と母上に認めていただきたいのです。ルドルフもラルフも、マーガレットもルイーズも、もちろん彼らの子供たちも彼女を好きになるでしょう。父上も母上もきっと彼女を好きになるでしょう。何より、私が彼女を好きなのです。自分自身の幸せを諦めてまで、心の通わない娘をめとって子供を産ませるという生き方には昔から抵抗がありました――今はもっと」
「彼女がいれば、あなたの人生は満たされるのね?」
 わたくしは末息子をじっと見つめながら訊ねました。
「はい、きっとそう思います。毎日リディアの顔を見て暮らせたらと考えるたび、今離れ離れなのがたまらなくつらくなります。私たちはたくさん話をしました。彼女は浮ついたところがまったくないんです。ふたりで海軍省の構造改革について論じたり、対岸の大陸の商人たちから仕入れた情報を共有したり、舞踏会で招かれた屋敷の建築様式や古代帝国の詩人について語り合ったり、それに……」
 ジョセフは楽しい時間を思い出したように口元をほころばせました。
「彼女も私も船に乗ることが好きなんです。川に浮かぶ小さい手造りのいかだから海を渡る大きな貿易船まで、どんな船でも」
 無邪気に森や川で遊び回っていたジョセフの子供時代を思い出し、わたくしまでつい表情が緩んでしまいました。
「女性として魅力的なのはもちろんのこと、同じことに興味を持てるというのは新鮮な経験でした。一緒にいると時間を忘れてしまう女性なんです」
 そのとき、椅子に深くもたれていた夫が腕を組みかえました。夫はジョセフに鋭い眼差しを注ぎました。
「ジョセフ、私はお前が再婚に踏み出す気になったことを心から喜んでいる。だが、なぜその相手があのミス・ローズデールなのだ? ミス・フェアバンクスのほうが若く、評判もよく、なにより正真正銘の未婚の淑女じゃないか。ミス・ローズデールは、お前にとって素晴らしい淑女であり恋人なのだろう。しかし、気の合う女と付き合うことと、正式に妻をめとるのはまったく別の話だ。家を守る義務がある未亡人でもなく、若く独身であるにもかかわらず商売に手を出すような女が妻の務めを果たせると思うか? それだけではない。彼女と結婚すれば、お前の完璧な評判に傷がつきかねないぞ」
「他人の無責任な評判で妻を選ぶほど、私は腰抜けではありません」
 ジョセフは即座に、決然とした物言いで夫に応えました。

 この子は幼い頃から非常に自制心と忍耐力の強い子供でした。
 その気質はなかば生まれつき、なかばブラッドリー家の息子という立場にともなう自覚と責任ゆえに身に付けたものでしょう。わたくしはジョセフが怒りのままに声を荒げるところはもちろん、このように父親に対して静かに燃える炎のような決意をたぎらせる姿を目にしたことはありませんでした。
 夫がすでにほとんど決定事項と化したフェアバンクス家の末娘との結婚を持ちかけた、あのときまでは。

 でも、わたくしは知っていました。
 ジョセフは三人の息子の中で最も温厚で落ち着き、それでいて誰よりもわがままで頑固者なのです。この子はひとたび “欲しい” と決めたら――どんなものであれ――手に入れるまで決して諦めません。

「お前を見る限り、その意志が変わることはなさそうだな」
 夫は砂ひと粒ほどの動揺も怒りも示しません。太く黒い眉の下から、海のように深い底知れぬ青の瞳がまっすぐ息子を見据えています。
「はい、そのとおりです」
 ジョセフは慎重に返事をしました。
「ただ、心配なのです。もしリディアに結婚を申し込んで承諾してもらえたら、ブラッドリー家のみんなにも彼女をまるごと、温かく受け入れてもらいたいのです。もう二度と彼女を悪意や冷笑にさらすわけにはいきません。私は彼女を幸せにしたいのです」
 三人の息子の中でもっとも夫によく似たブラッドリー家特有の鮮やかな紺碧の目が、誇り高き狼の王のように私たちをまっすぐ見つめ返していました。

「さすが我が息子だ。愛する者を守ろうと懸命だな。頼もしい」
 夫が見せた笑みは晴れやかで、少年のような好奇心がにじみ、そしてどこか感慨深げでした。「お前が選んだ相手に不満がないといえば嘘になる。だが、お前がそこまで心に決めた相手なら、もはや私から何も言うまい。末息子の分際で、お前は三人の中で一番の頑固者だからな。この期に及んで、私の命令など聞き入れはしまい」
 不承不承を装う夫に、わたくしはこっそりほくそ笑みました。そうですとも。わたくしの夫は鉄鋼業によってもたらされた巨万の富と強大な権力を誇る商人ですが、我が子の幸せを願わぬほど血の通わぬ父親ではないのです。
「認めてくださるのですね!」
 家族から祝福を受けられる安堵からか、ジョセフはいたいけな少年のように満面の笑みを輝かせました。
「もし一度申し込みを断られても、私がエドワード・ローズデールに話をつける」
 夫は "鉄鋼王" の名にふさわしい高慢さをあらわにしました。「必ず首を縦に振らせるから安心しろ。フェアバンクス家のほうはそうすんなりと片はつかないかもしれんが、お前はミス・ローズデールに結婚を承諾させることだけ考えればいい」
 このようなややこしい事態になったのは、そもそも自分の軽口が発端という負い目があるからか、夫はいつもに増して気前のいい大盤振る舞いです。
「父上、お心づかいは大変ありがたいですが、心配は無用です。私はあなたの息子ですよ。“真に望むものは己の手で獲得せよ” ――物心ついた頃からあなたにそう教え込まれてきました」
 罠を仕掛けた猟師のように、ジョセフはにんまりと微笑みました。「ミス・フェアバンクスの名誉にかけて今すべてをお話しすることはできかねますが、私はある人に手紙を出しました。非常に重要な手紙を。ですから、父上の手をわずらわせずとも、近いうちに彼女と私の婚約の話は跡形もなく消えてなくなります」

 その後、ジョセフは夫を置いてきぼりにするほど見事な手際で各方面に根回しをし、ローズデール家にミス・ローズデールとの結婚を申し込んだかと思えば、突然東海岸保養地に出掛け、その日のうちにとんぼ返りで街に戻ってきました。そして、莫大な財宝を独り占めした海賊船の船長のように意気揚々と再び我が家を訪れ、こう言い放ったのです。
「ミス・ローズデールは私のプロポーズを承諾してくれましたよ」
 夫とわたくしの驚きはまだまだ終わりませんでした。
 なんと、ヴァンダーグラフ家の新たな跡取り息子アーネストが、フェアバンクス家の末娘シャーロットに舞踏会で踊りを申し込んだのです。しかも、彼女の結婚相手の最有力候補と見なされていた、ジョセフの目の前で!
 アーネストの情熱的な眼差しとシャーロットの花がほころぶような微笑みを見れば、二人が熱烈な恋人関係にあるのは明らかでした。最北の海より冷え切った関係にある両家の子供たちが密かに想い合っていたことは驚愕の一言に尽きますが、どうやらジョセフはすべてお見通しだったようです。
 まさか、ジョセフは “非常に重要な手紙” で、年若いヴァンダーグラフ家の跡取り息子を挑発し、けしかけたのではないでしょうね…… やんわりと問いただしてみたものの、さすが口八丁手八丁のブラッドリー家の男です、のらりくらりはぐらかされてしまいました。

「我が弟ながら、あの豹変ぶりはまるで別人だな」
 長男ルドルフも次男ラルフも、弟の変貌にいまだ困惑を隠せない様子です。
 幼い頃から二人の兄たちよりよほど大人びて落ち着き、決して沈着冷静さを崩すことのなかった末の弟が、だらしない笑顔で人目もはばからず婚約者に愛の言葉をささやき続けていれば、家族といえどもうろたえずにはいられません。
 おまけに…… あぁ、我が息子ながらなんと申し開きをしたらいいのでしょう!
 あら、あなたはもうご存知なの?
 そうなのです。ジョセフときたら、結婚式を挙げる前にもかかわらず、ミス・ローズデールを身ごもらせるという蛮行を働いたのです。
「リディアによく似た美しい女の子だといいな」
 ぬけぬけと言い放つ能天気な笑顔は、本当に父親そっくり。困ったものです。

 さて、不満――おもに末息子への――はこれくらいにしておきましょう。

 濃緑の木々の葉を揺らす爽やかな風。
 燦々と降り注ぐ金色の陽射し。
 晴れわたり澄んだ真夏の青空。
 今日は愛し合う二人の、幸多き船出の日となるのですから。



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